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![]() 【第四回】 『海辺の叙景』のふたりの間に強引に割り込みに行く |
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1966年8月、1968年6月、1969年6月、1972年5月、9月、11月、1973年9月、1982年10月、1988年4月。 これはつげ義春が大原へ旅した年月である。回数にしてなんと10回(1972年11月は2度も訪れている)。近距離に位置することも手伝って、つげは房総への小旅行を繰り返しているが、大原への10回はその中でも群を抜いている。全旅先の中でも最も頻繁に訪れている場所であり、滞在期間は一週間を超える。 つげは、「ぼくはマンガを量産する能力がないので、将来を考えると不安になり、せめて自分の家があれば家賃の心配だけは免れると思い、何とか家を手に入れたいと切実になっていた」という。結局調布市内に住み続けることになるつげだが、この“旅の研究家”が膨大な候補地から選んだ持ち家の最有力候補が、大原だったのである。期待しないわけにはいかない。小雨ぱらつく6月、私は房総が誇る、東日本最大級の遺跡巡礼に出発した。 千葉県大原町は外房の中央に位置する小さな漁村である。交通の便はことのほか良く、外房線のほかにJRの特急が停まるため、東京からわずか70分で到着する。結構な本数があるが、「特急」という単語に対する個人的憎悪とつげ巡礼との不釣合いから、総武線でいったん千葉に出て、そこから外房線に乗る。40分のロスも、のたりのたりと田園風景を進む各駅停車の旅にはむしろちょうどいい。車内では、どんなに小さな遺跡にも対応できるように、持参したつげ義春の単行本を読み込む。 それにしても、重さの都合で持ち運べる単行本の冊数に限りがあるのが残念だ。大原漁港にはリリーちゃんがいるかもしれないし、「レストラン虎穴」で食事をすることになるかもしれない。もしかしたら今乗っている電車が「恐怖の終列車」かもしれないではないか!(※1)一度機を逸すと二度と出会えなくなるかもしれないのが、つげ巡礼である。そう考えると、最低でも10冊は持っていきたいところだ。 ぜひ筑摩書房には、全作品を発表年順に文庫化して欲しい。『大菩薩峠』よりは少ない巻数で収まるだろう。それが無理なら、電子書籍化するのはどうだろうか。オンデマンドなんて悠長なことを言ってないで、直接ネット配信してくれるのが一番いい。そうすれば持ち運びの問題はおろか、絶版もなくなる。 溢れ出す妄想に思わず顔がほころぶ。今回は一人旅だが、にやにや笑うためにも三人組で巡礼したいものだ。 「その後大原が国立公園になったという話は聞かない・・・なぜなら・・・なぜなら・・・・」 そうこうするうちに、もう大原駅に着いた。駅舎は、思わず乗り過ごしてしまいたくなるような豪奢なものではなかったものの、つげ作品から即座に連想されるような――たとえば映画『リアリズムの宿』冒頭に出てくる国英駅のような、「いかにも」なものでもなかった。この、決して鄙びてはいない駅舎。東京から日帰りできる距離。しかも大原からは内陸へと延びるいすみ鉄道が出ていて、言ってみれば外房における交通の要衝である(たぶん言い過ぎであるが)。遺跡の安否に関する不安は現場到着後も拭いきれなかったが、もっとも、たいていの漁村と同様に、大原の観光資源といえば海水浴ぐらいのものである。季節外れにわざわざ訪れる旅行客は少ない。既に途中からガラガラだった外房線だが、その中でも大原で下車したのは私ひとり。駅前はいい感じに閑散としていた。 雨は降ったり止んだりを繰り返していて、念のため傘をさしたまま海に向かい歩く(本が濡れたら事だ)。駅前に番傘を売る店はなく、持参した折り畳み傘なのが残念だ。自らの甘さを痛感し、準備の不徹底を恥じる。 そういえば海辺のふたりがおりなす静かな物語も、思わず間に割っていって大声を出したくなるような、息の詰まるものだった。それは、現代風の急展開する恋愛事情に比べて「じれったい」からではない。話の筋だけをとりだすと、男はいくぶん優柔不断で、確かに「じれったさ」を感じないこともない。が、作品全体としてみれば、むしろ「じれったさ」とは真逆ともいえる軽快なテンポがあって、意図された二律背反の運びが、かえって読者の不安を駆り立てる。大声への衝動はそういった不安を打ち破りたいという本能的な欲求であり、結局のところ出したくても出せないでいるのは、ふたりがマンガという非現実世界に居るからというより、全編を覆う強い緊張感が他者の介入を頑なに拒絶しているからだと思う。そして拒絶された読者たちは、不安が「存在」に深く根を張っていることを無意識のうちに知り、割って入る野暮を自制するのであろう。 今まではこれを「さすがつげ義春」とただ感心してきたのだが、いまこうして霞む雨の大原を歩いてみると、考えが少し変わった。『海辺の叙景』がもたらす存在不安の源である「暗さ」は、もしかしたら、つげの筆だけではなくて、この土地柄、大原の地理に依るところも小さくないのかもしれない(※2)。 私の過剰な思い入れは上のナルシスティックな文章から十分伝わったことと思う。さて、大原へのつげの深い心酔は、旅の頻度からも察することができるが、つげはこの地を『海辺の叙景』の舞台に選んでいるほかに、数本のエッセイを書いている。エッセイは77年『つげ義春とぼく』(晶文社)に収録された『颯爽旅日記』の中の『太海 鴨川 大原』『外房の大原』『ふたたび大原へ』と、89年6月『夜行16』に発表された『大原・富浦』の四本である(もちろん『旅年譜』にも度々その名を見ることが出来る)。それぞれ、1969年6月、1972年9月、同年11月、1982年10月の旅が題材になっている。 『大原・富浦』によると、つげにとっての大原は、「母の郷里で私も子供の頃二年ばかり過したことがある懐かしい土地」であった。年譜を紐解くと、1941年、つげ義春4歳の年に一家は伊豆大島から大原の漁村・小浜へと移り住み、父が病死して葛飾区奥戸へ移るまでの約二年間をそこで過している(『海辺の叙景』には「この海辺は母親の生まれたところでね 僕もちいさいとき一年ばかりいたんです」というセリフがある。この一年の「誤差」に、つげ独特の時間概念が見えるようなことはない)。三日で退園したという幼稚園も大原にあり、今も存続しているようだ。 『海辺の叙景』に描かれているのは、いつの旅がモチーフになっているのだろうか。『旅年譜』は1966年8月から始まっていて、それ以前については書かれていない。しかし、『大原・富浦』には「二十年ほど前その家(伯母の家:註釈金ゐ)に母と泊ったことがあった」とあり、『漫画術』にも「昭和四十年頃に、母親と千葉に行っている」という発言が見られる。正確な月日まではわからないが、これらは作中の主人公のセリフと符合している。主人公の男は海水浴場で出会った女に、「母親にさそわれてしぶしぶ来たんです 日陰のもやしみたいだから黒くなれと言われてネ」(※3)「二十年ぶりだもの」「伯母の家に来てるんだけど」と、旅の経緯を明らかにしている。エッセイにはさらに、「その一回きりでその家には近づかないでいる」とあるから、このとき(1960年近辺)の旅の青年が水玉模様の服を着ていたとみて間違いないだろう。 1960年代前半のつげは、まさにどん底にいた。次第に斜陽化する貸本業界のなかで、61年に三洋社が倒産、活躍の場を失う。もともと豊かではなかった経済状況がついに破綻し、同棲していた女性とも別れ、睡眠自殺を図ったのが1962年。ちょうど『別離』で描かれた頬のこけた陰鬱な青年が、「孤独と絶望の季節」(『つげ義春自分史』)のつげそのひとであった。 充実した作家生活の内に描かれた、1967年9月発表の『海辺の叙景』。同年3月の『漫画主義』創刊に端を発し、後の“つげブーム”へ至るつげ評価の土台が、徐々にではあるが固まり始めていた。10月には東北大旅行(一人旅)に出かけていて、私生活における一応の安定も窺える。 さて、エッセイ『大原・富浦』で注目すべきは、海女をしている母の姉(タマチのネエ)が「海から天草をとってきてトコロ天を作ってくれた」というエピソードである。つげは「磯の香りがして懐かしくて泣きそうになるほど美味だった」と述懐するが、言うまでもなく、この「トコロ天」は『海辺の叙景』にも登場して、作品の情感を強く高めている「仕掛け」のひとつである。 ところで、『海辺の叙景』における最大の効果を作りだしているのが、この「ベタ」であろう。コマ毎に目まぐるしく変わるアングルを支えるように、その切れ間に点々と存在するベタ。その圧倒的な存在感のうちに作品の展開は見過ごされて、流れるような、弾むような物語を形成している。 長々と持論を展開するのは「巡礼記」の趣旨から外れるだろう。「御託はもういいから写真だけ載せろよ」と言われないためにも、これ以上の深入りはしない。ただ、下手な「密室劇」が容易に外部からの侵入を想像させるのに対して、『海辺の叙景』において、他者の介入の余地はない。世界はふたりの名も知れぬ男女だけのためにあって、広がりも狭まりもすることはない。物語は「叙景」に過ぎず、舞台は「海辺」である。そのことをここに強調しておく。 ![]() ※2 おそらく巡礼者には賛同していただけると思うが、つげ作品の魅力は作品舞台そのものにもある。「絵が好い」と言うとき、それは作者の、風景の「どこを描くか(描かないか)」という取捨選択のセンス、そして「いかに描くか」という描写のセンス、この二点への肯定が同時に含まれなければならない。しかし、「この作者の手にかかると」という言い方では、それらに重きを置きすぎていて、元の風景の魅力が不当に低く評価されてしまうように思うのだ。写真の使用が作品にもたらす影響を考察するための本シリーズでは(初耳か?)、だから、そのように考えるよう、努めているのである。自己弁護に必死なのだ。 ※3 末尾の片仮名表記が「つげ的」であることは言うまでもない。『奥多摩貧困行』では、正助くんが「うちだけだヨ」と駄々をこね、つげさんが「頼むかナ」とおだて、マキさんが「凄いワ」と驚いているヨ。 ※4、5、6 いずれも『ある無名作家』より。 |