今年の年越しを、私は岩瀬湯本で過ごした。2009年は、私が主宰する
高田馬場つげ義春研究会設立5周年のアニバーサリー・イヤーにあたり、謝意と決意を込めたつげ巡礼を色々と企画しつつも、無残に頓挫を繰り返した前年を猛省すべく、原点回帰のつもりで湯本にて新年を迎えることにした。
この5年間、つげの足跡を尋ねて方々を旅したが、数ある名所のなかでも、岩瀬湯本への訪問頻度はNo.1である。良質の茅葺に湯質も良く、宿泊料金が安い。料理は山菜中心に美味ながら慎ましく、品数が多い点も大飯喰らいの私には助かった。常に宿泊客が疎らであるのが特に気に入っていた。
今回の訪問が4度目となり、公表データでいえばつげと並んだことになるのだが、前回2004年の夏以来、実に4年半ぶりである。過去3回の訪問は全てつげに出会ってから馬場つげ研開設までの3、4年に集中しているため、これほど間が空いたのは始めてであった。
前回の記録は『
つげ義春に会いに行く・特別篇(前編)』に記載してある。
いま文章を読むと、特別篇のころから何一つ考えが深化することなく怠惰に過ぎてしまった我が身に愕然とするが、それは兎も角としても、当時先の話として想定していた10年の、気付けば程なく折り返し地点である。
4年半というのは短いようで、しかし、無視しがたい分量の時間が、確実に経過したという実感がある。それは私を取り巻く環境の変化であり、それを受けての心境の変化でもあるのだが、当然、総理は変わったし、世界情勢も変わった。消えた電波芸人が再ブレイクするのに十分な時間が過ぎてしまったのである(特別篇の文中に登場する「宮家きってのダンディー」とは、有栖川宮を騙った詐欺事件で容疑者が使用した呼称であるが、今となっては何のことやら、であろう)。
そして、時が止まって見えた彼の地にも、やはり変化がおとずれていた。
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集落入り口付近の国道沿いにある郵便局。ポスターにある「ひとりを愛せる日本へ。」の文字に、そうか、民営化されたんだなと気付く。
旧郵政公社が5つの株式会社に分社化したのは2007年10月1日。大論争を巻き起こした民営化から1年以上が経過したが、メリット・デメリットが詳らかになる前に、今度は
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未曾有(きちんと変換されるではないか!)の大不況に突入してしまった。簡易郵便局の閉鎖が400件を超えたという記事をどこかで読み、集配集約による人的繫がりの消失を嘆く論説をどこかで読んだが、果たして何が正しいのか。省みて検証することもなく、数日前に年賀状を投函したばかりであった。
激しい横殴りの降雪にコートの襟を立てて道路を進んでいくと、まさにここが「ひとりを愛せる日本」そのものではないかと思う。先に公表された新たな財政基準においても、イエローカードリストに天栄村は載っていなかったことを考えれば、財政状況はとりあえず健全と言えるようだが、後背に広々と荒野が広がり、薄が淋しげに揺れる極寒の郵便局を前に、採算であるとか、お世辞にも儲かっている印象はない。集落から郵便局が消えるかもしれないという不安を与えたであろう小泉民営化が、もしかしたら一番の変化だったのかもしれない。

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(左)写真右端の階段上にスナックがある。前回より、少しくたびれていた
(右)1810年に建てられたという常夜燈はそのまま
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そうこうするうちに、つげ義春ゆかりの宿、湯口屋旅館である。小さな集落である。
玄関口にずらりと並んだ靴を見て、さすがに年越しということもあって、親戚縁者全員集合しているのだなあ・・・と思っていたら、(これは囲炉裏を囲んで食事したときにわかったことだが)6、7組、総勢20名
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超の大賑わいであった。
夫の定年をきっかけに温泉めぐりを始めたであろう初老の夫婦、秘湯をめぐる出版ライターに違いないデジタル一眼レフ若夫婦、人間交差点風わけありカップル、シェフの気まぐれ大家族。
どういう風の吹き回しか、今回は1ヵ月も前に電話で予約していたおかげで、いつも通りのベストポジション、集落が見渡せる『鶴の間』に泊まることができた。しかし、予約の心配を岩瀬湯本でするとは思わなかった。これは本当に年末だからなのであろうか。

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(左)鶴の間からの景色。道路が車で埋まっている!
(右)『鶴の間』内部。バチバチまわす旧式のテレビが懐かしい。実際には隣接してコタツの部屋があり、そこに大きなテレビが備え付けられている。
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何だか宿全体が活気に満ちていると感じたのは、宿泊客が多い為かと思っていると、そこに甲高い声が飛び込んできて合点がいった。
囲炉裏端のレイアウト変更が行われたり、アートらしき巨大オブジェが置かれたりと、全体的にセンスが今風になっていることから、薄々勘付いてはいたが、やはり代替わりしていたのである。そして、小さな子供までいるではないか。
4年前、神奈川から現在の主人が戻り、後を継いだのだという。若い女将さんは神奈川の人らしく、我々に集落のことを話してくれた女将は亡くなられていた。
さらに、主人によれば、【
特別篇(後編)】に記載した湯小屋の元主人で、引退後は集落近くに「湖北庵」と名付けた庵を築いて隠居していた星さんも3年ほど前にお亡くなりになったという。若輩ながら、この4年半で、私の周囲にも幾人かの死別があった。抗えないことと言えど、月日というものは万人に平等であるのだなあと思う。
それでも、傍らで2歳の男の子が元気よく走り回る光景は、前回訪問時にはなかったものである。「女性のお客様へ」と夕食に山葡萄のジュースを振舞うのも、旅番組的表現に拠れば、若女将の粋な計らいといったところであろう。大変失礼な物言いになるが、宿の清潔感がグッと高まったように感じた。ちなみに湯口屋旅館は【
ホームページ】を開設し、若女将はブログを掲載している。時代である。
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朝早く、玄関先で餅つき。朝食にて振舞われた
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湯口屋は旅館業を営んでいる以上、貴重な営業資源である茅葺をどうこうすることはないと安心していたが、集落内の一般民家の茅葺がなくなっていないか、それだけが不安だった。
が、家並に特段の変化はない。むしろこの日は雪化粧を施され、トタンに覆われた元茅葺たちもそのシルエットで往時を偲ばせて、圧巻であった。音も無い集落は、確かに分厚い茅葺に覆われているかのようであった。

(左)美しい曲屋の「分家」(右)近くにスキー場がオープンするらしく、地元民は積雪を心待ちにしていたとか

湯本の集落でテレビが普及したのは1963年、翌年に東京オリンピックを控え、村で共同アンテナを設置したことがきっかけだったという
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全戸が湯口屋のように手入れの行き届いた茅葺を持っているわけでは当然ない。写真は崩落寸前の状態で空き家となっている民家。 |
さて、ここまで何枚か写真を見て、ピンと来た方もいらっしゃるだろう。いや、一度でも湯本に足を踏み入れたことのある人であれば、もっと言えばつげの描いたペン画を目にしたことがある人であれば、私が最重要事項を伏せていたことに気づかれていると思う。
そう、
何と、
湯口屋の前に立っていた共同浴場が立て替えられていたのである!
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雑誌紹介にも顔を出す名物秋田犬・りょうも4年半分老いた。冬毛か、もっこもこだった
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これは衝撃的であった。あまりの衝撃にくらくらきてしまった。
以前のコンクリート打ちっぱなしの貯水タンクのような建物は、三角屋根のモダンな丸窓に取って代わられた。改装は2005年だという。
もとより湯口屋を遮るように建っていたが、改装により、その存在感は格段と増した。そう感じるのは私だけではあるまい、写真を見比べてもらえば一目瞭然である。
屋根の分高さが増し、ペン画の視点から見ると2階に届くようになった。脇に湯治客用に新設された足湯もあり、総量として湯口屋を遮る部分は大きくなっているのだが、何よりもそのモダンな景観である。
うおっと思わず声を上げた。


(左)共同浴場は、室内の「内湯」に対して「表湯」と呼ばれてきたという(右)こちらのペン画風景は前回から変更無し
この変化を残念に思う気持ちが無いといったら嘘になるが、前回の古びたコンクリも、建設当時は小さくない違和感をもって迎えられたに違いない。茅葺・木造の“歴史的”建造物の見事な景観を、あろうことかコンクリートで遮るのかと。
しかし、当時の違和感も年月が取り除き、周囲と絶妙にマッチした風景となったのである。建て替えられたとき、共同浴場は築35年程度であったから、またそのくらいの年月が経てば、この「三角モダン野郎」も風景に融けていくのであろう(この表現もすぐに過去になろう)。
折に触れ言い続けていることだが、大切なのはそれを受け入れるべき景観全体、すなわち集落なのである。
例えば、国の一級文化財としての地位を確立した近隣の大内宿において、地元民も参加する保存委員会は、観光客向けのアンケートに「感想を以下から選んでください。景観を壊すようなトタンや建造物があって良くなかった」と明記している。民俗学者にはじまり、社会学者、建築学者まで巻き込んでの幾多の論争を乗り越えた末に、である。
この愚に習っては絶対にいけない。国敗れて山河ありと言ってしまうと、それはいかにも極論だろうが、景観とはそこに住む人間や、その決断をも含んだ生きた景色のことであり、生活そのものなのである。この思いは年々強まるばかりである。
湯本はつげが旅した当時そのままではないが、とてもよく趣を残している稀有な集落である。冗談でなく、つげ義春世界遺産の筆頭候補である。それでも、他の山間の市町村同様、今後の持続の妨げとなるべき抱える問題は少なくないはずだ。共同浴場の建て替えは湯口屋の若返り同様、諸問題解決に向けた具体策であり、肯定してしかるべきと私は考える。
・・・いったいなぜ、つげのペン画からこんなところまで話が飛んでしまうのだろうか。それだけショックが大きかったと言えばそれまでであるが、「つげ先生の作品を読んで泊まりに来るお客さまは多いですよ。大勢ですよ。」と嬉しそうに語る主人が、つげ義春を全面に打ち出した呼び込みを開始していないのは、まだその観光資源に注目していないからだけなのか、分からないからである(ホームページには、トップページ上段に太字で「つげ義春」の文字が見える。そしてなぜか、『男の隠れ家』のリンクからファンサイトに飛ぶ。そういえば、『男の隠れ家』を出していた「あいであ・らいふ」が運用の失敗から倒産したのは2008年12月、つい先日のことだ)
願わくば、景観とは生活そのものであるのだという私見に通じる想いを持っていてほしい。建て替えのロジックを次々と援用して、バキバキ壊せ、ホテルを建てろ、などと私が露ほども思っていないことは理解されると思うが、その土地で生きるということを体現し続けてほしいのである。
つげのつの字も出さずに続けてほしいとは口が裂けても言えない。しかし、つげ義春の世界がつげのネームバリュによって成立しているわけではないということは論を待たず、つげのペン画は構図にその本質があるわけではないということも明らかである。
確かに私は構図の合致に感動してきて、それが旅の主題となっているのは事実である。しかし、ペン画の隅々から滲み出るつげ的物語の可能性を旅先で感じたとき、その感動は形式的な合致のそれを遥かに凌ぐ。
私は、すっかり変わってしまった後の、またの日の湯本にも、つげの世界を楽しみたいと本気で思っているのである。