)、高野慎三はその少なさが「物足りない」としている。高野の感じた物足りなさが何に起因するのかは明らかにされないが、後年の観光地化について、「<つげ義春の世界>、換言すれば、静謐と穏やかさの世界とはあまりにも隔たっていた」という感想を記している(『つげ義春を旅する』)。
このときは、雪に覆われて肝心の萱葺きが見えないという難点はあったものの、宿場の家並みを存分に楽しむことができた。もちろん観光客は一人も居ず、それどころか住民の姿も見えなかった。風がびゅうびゅうと冷たい音をたてるほか、近辺に車も通らずに静まり返った大通りに立つと、前方・左右の三方から茅葺特有の重量感が迫ってくる。500メートル弱の街道は、両側に整然と民家が並び、都会には無くなってしまった集落というものを感じさせた。それは、外界と隔たる山村や離島、枡形が微かに名残を伝える宿場跡、ましてや廃墟では決して感じることのできない、人間が土地に根付いた感覚であった。
店はみな閉まっていたが、ただ一度、老婆が戸をたたき、孫が学校で使う折り紙を買いに来た。音はせずとも、この雪の下、茅葺の下には集落に住まう人々が居る。それは当然のことであったが、私の集落体験を幸福なものにした。いや、私の大内体験にとっては、それは不幸であったのかもしれない。純白の大内の幻影が強烈に焼きついていたために、私はもはや通常の大内宿を全く受け入れられなくなってしまったからである。
お前は何処のオリエンタル小僧だと非難されてしまうかもしれないが、まさに<つげ義春の世界>に在る大内を味わってしまった以上、突然全く別の、しかも真逆の顔に出くわして、落胆しない方がおかしい。理屈を如何様につけたとしても、こうした陶酔を急に奪われて狼狽せず、全くの平静でいるのには無理がある。再び訪れた夏のある日、話に聞こえし観光地・大内宿を見て、絶句した。大袈裟ではない、今風に言えばそのときの私は完全に「引いて」いた。
大型の観光バスが近くの駐車場に留まり、そう広くない、と言ってもあの日広大に感じた街道は、大勢の観光客で埋め尽くされていた(年間80万人が訪れるという)。雪の日に折り紙を売った店では、観光客相手に手打ちそばや土産物を売っていて、昼時は休む暇なく老夫婦が働いているのを見ると、思わず引き返したくなるほどの異世界であった。
これはまた見事なまでに観光地然しているなァと、驚くより呆れてしまった。ここはお江戸か日光か。私は以前、伝統民具で有名な三春を巡礼したとき、想像とのあまりのギャップに驚いて(それでも事前に資料を用意してあったのだが)、ディスカバー後の非つげ的展開を「三春ショック」と名付けたのだが、思わず「大内ショック」に変更しようかと思ったほどである。
もちろん、こうした現状は否が応でも耳に入ってきたから、事前に承知していた。前回の訪問がむしろ「大内ショック」だということも理解していた。それにしても!である。それにしてもあの陶酔を誘う素晴らしき情景は何処に行ってしまったのか。
完全にアンチに回った私は、茅を葺いて本陣を復元した「町並み展示館」にケチをつけ(町並みのなかに町並み展示館これ如何に)、裏道に回り、真新しい建材で増築された民家の健全性を讃えたりした(テッテ的だよね!テッテ的だよね!)。挙句の果てに、98年に道路を土に戻したという行政の欺瞞を呪った。これではつげが大内宿に言及しないはずだ、茅葺云々ではない、問題は集落云々であろう!
「発見」者の相沢は、「大内宿 過去こそ未来」という座談会において、こうした観光化への批判について、次のように語っている(『別冊東北学7』)。
「今の大内をご覧になってがっかりされる人がいるのは当然だと思います。「中国製の土産物ばかりで、まるでチャイナタウンみたいだ」と手厳しい言葉を受けたこともあります。多くの批判を聞いていますが、私はその全部を受け止めます。」
大内は未完成であり、「ゆったりとした時間の流れの中で」大内を見るべきだと相沢は言う。「どんなに非難されようと、がっかりされようと、そこに欲望を抱いた生きた人間がうごめいていなければウソ」であり、生活伝承が途絶えたなら残しても意味はない。相沢は熱を込めて云う、「野外博物館にでもして、建物だけきれいに保存すればいいではないですか」。
「現在の大内がさまざまに非難されても、村がその気になるまで待つしかないと思っています。みんながそこで共に生きていることこそが重要なのです。」
しかし、やはり陶酔を求めた私は、この人は立派だなあ、とだけ思って宿場跡を後にした。次の日は早起きするしかなかった。
※1 『つげ義春日記』のなかには、つげが『日本奥地紀行』を読んでいると記されているが、その著者イザベラ・バードも、明治11年、江戸から日光までを旅する途中で大内に寄っている(「美濃屋」に宿泊)。同書には短いながらも大内宿が登場する。さらに中川、横川宿とつげの旅先が散見され、もしかしたら、つげはこの本から情報を得ていたのかもしれない。