【福島南部】


・ 大内宿

 「大内宿は会津地方と江戸を結ぶ宿場である。古くから栄えた宿駅とは異なり、江戸時代の初めに新たに敷地割を行い、近くの農民を移住させてつくりあげた宿場町である。したがって、旅籠屋といっても、農業を営むかたわら、人を泊める程度であって、建物の造りも農家と大差がない。
 家並みは、南北に通じるほぼ直線の道路の両側に、棟を道路に直角に向けて整然と配置されている。その主屋と主屋との間には空き地があり、この空き地の南側は自宅の敷地となるが、北側の空き地は隣の家のものとなる決まりである。
 大内宿の民家は周囲に空き地をもつ農家のたたずまいであるが、隣の家との関係を十分に考慮しながら、家の配置や間取りを構成している。このような農家と都市の中間的な景観を持つすまいは、各地の脇街道の宿場や小都市にも見られる形式で、大内宿はその典型例といえよう。」(川崎民家園の説明より)


 日本最大級の萱葺集落・大内(おうち)につげ義春が訪れたのは、「発見されて間がない」(『旅年譜』)1970年5月のことである。

 明治17年、現在の国道121号線の開通により、宿場としての役目を終えた大内は、以後、昭和42年に「発見」されるまでの80年以上にわたって、「忘れられた」町であった。
 永い眠りを覚ましたのは、当時大学生だった相沢韶男(現武蔵野美術大学教授)。民俗学者・宮本常一の薦めで、各地の宿場・街道を歩いていた相沢だが、初めて大内を見たとき、江戸時代にタイムスリップしたかと思うほど驚いたという。大内の家並みは、他に類を見ないほど見事な状態で、江戸時代の家並みをそのままに保っていた。まもなく相沢は宮本らと保存活動に乗り出し、1978年、大内は国の重要伝統的構造物群保存地区に指定された。

 つげが大内に触れているのは、わずかに『旅年譜』の一文に過ぎず(
※1)、高野慎三はその少なさが「物足りない」としている。高野の感じた物足りなさが何に起因するのかは明らかにされないが、後年の観光地化について、「<つげ義春の世界>、換言すれば、静謐と穏やかさの世界とはあまりにも隔たっていた」という感想を記している(『つげ義春を旅する』)。
 高野は、物足りなさと言うよりも落胆を、「冬枯れ時とか、あるいは、陽の昇る前だとかに訪ねてみれば、昔のままの宿場の情景に歓声をあげずにはいられないと思う」と書いているが、裏を読むことを知らなかった私は、わざわざ冬枯れも冬枯れ、吹雪く2月を選んで大内を訪れた。
岩瀬湯本から大内までの道
 このときは、雪に覆われて肝心の萱葺きが見えないという難点はあったものの、宿場の家並みを存分に楽しむことができた。もちろん観光客は一人も居ず、それどころか住民の姿も見えなかった。風がびゅうびゅうと冷たい音をたてるほか、近辺に車も通らずに静まり返った大通りに立つと、前方・左右の三方から茅葺特有の重量感が迫ってくる。500メートル弱の街道は、両側に整然と民家が並び、都会には無くなってしまった集落というものを感じさせた。それは、外界と隔たる山村や離島、枡形が微かに名残を伝える宿場跡、ましてや廃墟では決して感じることのできない、人間が土地に根付いた感覚であった。
 店はみな閉まっていたが、ただ一度、老婆が戸をたたき、孫が学校で使う折り紙を買いに来た。音はせずとも、この雪の下、茅葺の下には集落に住まう人々が居る。それは当然のことであったが、私の集落体験を幸福なものにした。いや、私の大内体験にとっては、それは不幸であったのかもしれない。純白の大内の幻影が強烈に焼きついていたために、私はもはや通常の大内宿を全く受け入れられなくなってしまったからである。

 お前は何処のオリエンタル小僧だと非難されてしまうかもしれないが、まさに<つげ義春の世界>に在る大内を味わってしまった以上、突然全く別の、しかも真逆の顔に出くわして、落胆しない方がおかしい。理屈を如何様につけたとしても、こうした陶酔を急に奪われて狼狽せず、全くの平静でいるのには無理がある。再び訪れた夏のある日、話に聞こえし観光地・大内宿を見て、絶句した。大袈裟ではない、今風に言えばそのときの私は完全に「引いて」いた。

 大型の観光バスが近くの駐車場に留まり、そう広くない、と言ってもあの日広大に感じた街道は、大勢の観光客で埋め尽くされていた(年間80万人が訪れるという)。雪の日に折り紙を売った店では、観光客相手に手打ちそばや土産物を売っていて、昼時は休む暇なく老夫婦が働いているのを見ると、思わず引き返したくなるほどの異世界であった。
 これはまた見事なまでに観光地然しているなァと、驚くより呆れてしまった。ここはお江戸か日光か。私は以前、伝統民具で有名な三春を巡礼したとき、想像とのあまりのギャップに驚いて(それでも事前に資料を用意してあったのだが)、ディスカバー後の非つげ的展開を「三春ショック」と名付けたのだが、思わず「大内ショック」に変更しようかと思ったほどである。
 もちろん、こうした現状は否が応でも耳に入ってきたから、事前に承知していた。前回の訪問がむしろ「大内ショック」だということも理解していた。それにしても!である。それにしてもあの陶酔を誘う素晴らしき情景は何処に行ってしまったのか。

 完全にアンチに回った私は、茅を葺いて本陣を復元した「町並み展示館」にケチをつけ(町並みのなかに町並み展示館これ如何に)、裏道に回り、真新しい建材で増築された民家の健全性を讃えたりした(テッテ的だよね!テッテ的だよね!)。挙句の果てに、98年に道路を土に戻したという行政の欺瞞を呪った。これではつげが大内宿に言及しないはずだ、茅葺云々ではない、問題は集落云々であろう!

 「発見」者の相沢は、「大内宿 過去こそ未来」という座談会において、こうした観光化への批判について、次のように語っている(『別冊東北学7』)。

 「今の大内をご覧になってがっかりされる人がいるのは当然だと思います。「中国製の土産物ばかりで、まるでチャイナタウンみたいだ」と手厳しい言葉を受けたこともあります。多くの批判を聞いていますが、私はその全部を受け止めます。」
 大内は未完成であり、「ゆったりとした時間の流れの中で」大内を見るべきだと相沢は言う。「どんなに非難されようと、がっかりされようと、そこに欲望を抱いた生きた人間がうごめいていなければウソ」であり、生活伝承が途絶えたなら残しても意味はない。相沢は熱を込めて云う、「野外博物館にでもして、建物だけきれいに保存すればいいではないですか」。

 「現在の大内がさまざまに非難されても、村がその気になるまで待つしかないと思っています。みんながそこで共に生きていることこそが重要なのです。」

 しかし、やはり陶酔を求めた私は、この人は立派だなあ、とだけ思って宿場跡を後にした。次の日は早起きするしかなかった。







※1 『つげ義春日記』のなかには、つげが『日本奥地紀行』を読んでいると記されているが、その著者イザベラ・バードも、明治11年、江戸から日光までを旅する途中で大内に寄っている(「美濃屋」に宿泊)。同書には短いながらも大内宿が登場する。さらに中川、横川宿とつげの旅先が散見され、もしかしたら、つげはこの本から情報を得ていたのかもしれない。



・ 塔のへつり(岪)

 1967年10月26日より、つげは初めて単独で東北に旅行している。「私の温泉好きは、このときに始まったと思える」(『旅年譜』)と言うほど思い出深いこの旅行については、日記を兼ねたメモが「颯爽旅日記」中の「東北の温泉めぐり」に収められている。
 10月31日の記述を見ると、「九時に宿を出て、塔のへつりを歩いていく。1時間ほど。茶店でおでんを食べる。ここのコケシは赤松のコブシ病でコブシになった枝を、自然の型のままコケシの胴体にしている。」(文中、「へつり」は山偏に弗となっている。通常は山冠に弗)
 ちなみにこの「宿」とは、会津鉄道湯野上温泉駅の近くにある塔泉閣であり、
今も健在である。つげは、塔のへつりがある隣駅の「塔のへつり駅」まで、一駅分山道を歩いたが、今は車の往来も激しく、散歩に適しているとは言いがたい。

 塔のへつりは、会津線と並行して流れる大川(阿賀川)が、万年の歳月をかけて造りだした自然景勝である。「へつり」とは会津地方の方言で「危険な崖」を意味する。
 川の浸食によって抉られた奇妙な形状の岩々が、塔のように塀立し、それぞれに象、獅子、鷹、鷲、犬、烏帽子、屏風など、形状を冠した名前がつけられている。なかには「土俵岩」と「舞台岩」という、先人の努力が垣間見える名称があったりして、微笑ましい。

 へつりへと降りる途中、茶屋兼土産物屋があり、無料で振舞われる味噌汁目当てに観光客が集まっていた。この店にはつげも立ち寄っており、「ぼくの漫画作法」中のエッセイ「ひわしねもんだ」には、「そこで味噌おでんを食べた」とある。
 「茶店の軒下に薄汚れた小さなのれんが下っていたので、何気なくみると、紺地に白抜きの毛筆で、会津地方の方言がいくつか書かれてあった」。
 つげは染め抜かれた方言をメモし、翌年8月に発表された『もっきり屋の少女』に使用している。

にしらはろくな銭もねいくせに海だ山だってけつかる
まったくたまげたもんだ

むげいのおどっつあは
きぐしねくてやんだおら

あの角をむぐって
ぶつかった所がもっきり屋だ




 この方言のれんに代表されるように、土産物は意図的に郷土色が強められた結果、ともすると何処にも存在し得ない世界を表出する「月の石」になってしまうものだが、つげ作品に吸収された方言のれんは、他の創作部分から浮くこともなく、読むものに違和感を与えない。事情を知るつげファンでなければ、実際にある方言を利用したことにさえ気付かないだろう。
 「むげいの家のお父っつあは」「あの角をまがった所がもっきり屋だ」と、マイナーチェンジを加えて理解しやすく、会話のテンポを整えることにも成功している。しかし、つげは「物語の進行と構成にしばられ、下手な使いかたしかできなかった」と手厳しい。



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