【千葉・内房】


・ 東京湾観音(佐貫)

カップルやカップルが集う。「東京湾観音って牛久大仏みたいなもの?」「みたいなもんだよ」・・・何度この会話が関東民たちの間で繰り広げられたことか
 1966年8月、後に『庶民御宿』に描かれることになる千葉旅行にて、つげは東京湾観音を「見物」している。高さ56mの巨像の歴史は意外と古く(?)1961年。建立ホヤホヤの5年後に、他の旅先とは明らかに趣を異にする観光名所を訪れたのだから、もしかしたら当時はかなり話題を呼んだのかもしれない。

 東京湾観音は、地元出身の材木商・宇佐美政衛が私財を投じて建設した、非・宗教団体系観音で、完成までに4年を超える月日が費やされた。宇佐美と言えば、千葉では有名な外食チェーン「びっくりドンキー」のUSAMIであり、現在もグループ関連会社「宇佐見造林」が管理している。

 観音の「胎内」は螺旋状に20の階層を為し、500円もの私財を投じると中に入ることが出来る。各階の壁には十三仏七福神が飾られているのだが、それらの脇にはいちいち賽銭箱が置かれ、御神籤が売られている。棚にずらりと並んだ金色の仏像がいかにも商魂逞しい新興宗教を思わせるが、やはり、手に取る人の姿は見えない。

 急な階段を上っていくと、観音の両手部分が展望台になっていた。さらに進んで、頭頂にあたる最上階から、浦賀水道を見下ろす。晴れた日は富士が望めるという絶景だが、薄い雲に遮られて何も見えず、強風に堪らなくなって、階段を下りた。


・ 富津岬

 東京湾観音が建つ大坪山から15キロほど北上すると、東京湾に嘴のように突き出した砂洲がある。これが富津岬である。富津公園の一部で、園内を横切って岬へと続く道路が走っている。松林を抜けると、突端には五葉松を模った展望台が立ち、わずか10キロ先に三浦半島観音崎が見える。

 現在の富津岬は、東京湾観音同様に、つげ的「鄙び」の残滓もない場所である。が、果たしてそれが残滓であったのか、古くから潮干狩りや海水浴場として多くの客を集めるこの岬は、つげが訪れた40年ほど前も似たような状況だったに違いない。「旅年譜」を除いて目立って作品に登場することもない。

 つげが、愛読する川崎長太郎の私小説「ふっつ・とみうら」の文学散歩を試みたことは、『貧困旅行記』中の紀行文「
大原・富浦」に書かれているが、文中に富津岬についての具体的な記述はなく、「ふっつ・とみうら」の内容紹介において僅かに触れられる程度である(「富津岬をちょこっと見物し」)。

バーベキューやるものあり、ビーチバレーやるものあり。半裸体姿が三々五々、甲羅干しをしていた。
 「ふっつ・とみうら」では、老い先短い主人公と若い妻P子が「下り鴨川行き気動車」の国鉄君津駅からバスに乗り、終点の富津公園入口まで行く。彼らの目的は「国民宿舎」であった。

 「傍をハイヤーが通り過ぎる度毎」「夥しい砂埃かぶった」道路を行くと、「左手は松林、右手は葭簀張りの掛け茶屋ごし、泥海に臨んだ、富津の部落ものぞかれた。」
いまや道路は綺麗に舗装され、それらしき茶屋も見当たらないが、「東京方面から押しかけてきたものと覚しい」若者や婦女子が相当数見受けられるのは変わらない。
 「松林の間へ、池のような箇処が現われる裡に、海中へ突き出した長い砂州の全貌もあらわになってきて、中間の少し小高い砂丘の丘へ、新築なったばかりの大きな洋館もみえ始め」、これが国民宿舎であった(池のような箇処とは公園内の大池のことだろう)。

 つげの旅を語る上で外せない「国民宿舎」、大原では既に面影もなかったが、この「国民宿舎・富津岬荘」は多少の改築を経て現存している。川崎が細かく描述した宿舎の内装と実物の一致は、ホームページの間取りから見て取れる。二人が「二食つき九百円でとまれるところとは思えないな」「個人経営じゃないから、たべものかて、ボラないのよ」と感嘆した破格の宿泊料金は、現在も一泊二食付6900円で、近辺の宿と足並みを揃えてはいるが、それでも格安と言える。

 結局、国民宿舎は満員で、二人は宿泊を諦めて富浦へ向かう。

 「こう云うとこ、私達のくるところじゃないような気もするわ。――みんな若い人ばかりでしょ。キャッキャッと騒ぎながら、海水浴したり、海岸を飛び廻ったりして遊ぶ連中が、押しかけてくるのに丁度誂え向きなのよ」
 「ビート族の天下と云う訳か」

 奇妙な形状の巨大展望台が聳える突端には、かつて砲台が築かれていて、幕末から先の大戦までの長きに渡って東京湾の要塞であった。「海中へ突き出す砂州は、先へ行くほど細まりくびれ、その突端にひと際小高い、土塊如きが現われており、旧砲台のあとと、想像されるのであった。」
 ビート族も老いて夢のあと、ウーファー族の天下であった。


・ 富浦

 富津岬最寄の大貫駅から内房線に乗ると、 七ツ目の駅が「富浦」である。電車はその後館山で向きを変え、外房に向かって横断を始めるため、二つ手前の富浦までくると、狭い千葉県とはいえ、かなり南まで下った感慨があった。南国を思わせる蘇鉄が到るところで「とびとびやにっこい葉を拡げて」いて、そろそろ太洋に出くわしそうな高揚がある。駅の傍の直売場で熟れた枇杷を買い、食べながら街を歩く。

 「ふっつ・とみうら」の二人は、ホームを降りてすぐ、「近くの青い丘の裾に、ぽつんと一軒建つ、瓦屋根の洋館とも日本風ともつかない、白い家が映じ、短かな煙突から、ひと筋灰白色の煙が、まっすぐ上っている」のを見つけ、「屍体を焼く」ような「へんな匂い」を嗅いで、その家が火葬場であると推測した。富浦駅に着いたつげは、まずこの火葬場を探したが、駅裏には「一面平坦な田圃が広がるばかりで火葬場はなかった」と言う。しかし、いくら小説を読んでも、そこが本当に火葬場である確証は得られず、あくまで二人の(川崎の)推量でしかないのだから、火葬場ではなくとも、白い家が実際にあるかもしれない。そう思って探してみるが、煙突の一本も見当たらなかった。

 駅前について、川崎は「街燈も、アーケードも備え付けてない、がらんとした通りに、ひと影も少なく、食堂、土産物店、雑貨屋、理髪店等、二階建ての構えも乏しく、どこの店先もひっそりしており、そろそろ傾いた午後の日ざしに曝された街筋は、ちょっと気が滅入りそうであった」と書いている。
 「ちんまりした割と新しい駅の建物」を
さらに改築して真新しい駅舎を背に、100メートルほどの商店街があるが、人気はなく、閑散としていた。ただ、南国調のムードからか、気が滅入ったり、寂しい感じはなかった。

 つげは駅前から、「小説に書かれた道順をたどりながら「房州屋」らしき宿を探しに海辺の方へ」歩いていく。「房州屋」とは「ふっつ・とみうら」で二人が投宿した海辺の旅館である。「房州屋」への道のりは、以下のようであった。

 「駅前通りがバスも通行している、路幅も可成広い、路面も粗末ながら舗装してある、街道へ出」ると、「右手の方に曲がり、昔ながらのくろずんだ瓦屋根、今風にコンクリートで外側囲んだ小売店等、雑然と並ぶ通りの隅を、ぶらぶら歩いて行」き、「駅から、二十分以上やってき、短かな橋にかかる少し手前」に「房州屋旅館」を見つけた。

 この「街道」が、海に沿って走る国道127号であるのは間違いない。つげは、そして川崎も国道を北上した。さすがに開発が進み、歩けども家が尽きることはなかったが、並というほどの群れは為さず、「右へ行くと、すぐ町外れ」であった。つげは「その辺から崖下の海を見ると、小さな入り江と小さな漁港が見えた」と書いている。が、小高い場所を走る国道も、視界を建物や木々に遮られ、漁港は見えなかった。
 
「古風なしっとり落ち着いた宿」「是非とも泊まってみたい感じの良い宿」逢島館
 ここで、いきなりつげは「急な坂を下り漁港へ」と向かう。そして、漁港の目の前にあった「逢島館」を見て、「そこが「房州屋」かとも思ったが、小説では、宿の前が国道になっているので多分違うのかもしれない」と言うのである。
 現場に立って、再度エッセイを読み返して驚いた。
 これでは小説の道順とは違う、房州屋は見つからないではないか!

 確かに駅の方面から国道を歩くと、200メートルほどで小さな橋を渡る。「短かな橋にかかる少し手前」という川崎の記述に当てはまり、つげは房州屋を既に通り越したと思ったのかもしれない。だから、富浦小学校の脇で左折し、坂を下った。
 しかし、漁港を過ぎてさらに国道を300メートルほど行くと、再び富浦湾へと注ぐ川がある。そして「ふっつ・とみうら」の記述を読むと、どうやら二本目の川の手前にこそ「房州屋」はある(あった)ようなのである。

 身体が衰え、「食物の不消化から、発散するに相違ない放屁」に悩まされていた主人公は、「歩いて消化不足を補おうと云ういつもの算段で」旅館の周りをひと歩きする。放屁しながら足早に夜の街を歩く姿は情けなく、寂寞として素晴らしいが、それはともかく、そのシーンでもさらに徘徊の道筋が仔細に書かれ、「駅へ行く通りと、T字型にぶつかるあたりも過ぎて、街道は心持ちだらだら坂の勾配となり、店屋は切れぎれとなって、白ペンキ塗りの小さな旅館や、小学校の建物等、夜目にそれとみえ」とあるのだ。しかも、「駅から、二十分以上」かかる距離と言えばこの付近になるはずである。

 「房州屋」は「街道筋の旅籠屋が、近年まわりの見てくれだけ、手ッ取り早く洋式に改造したみたいな家造り」だったという。文学散歩途中に、作中に詳しく登場した宿に泊まりたいと思うのは当然である。しかも旅籠に「悪い気はしない」つげであるから、なおさらだと思っていた。結局、つげは「別に「房州屋」にこだわっているわけではない」としてあっさり探索を諦めるが、これは見つからなかった故の誤魔化しではなくて、本心だったのか。

 諦めて漁港に続く「だらだら坂」(!)を下る。ふと坂道を振り返り、小説の一文を思い出した。「坂を登り切れば、左手はすぐ海で、突堤に抱かれた玩具のような海が、ほのかに見下ろされ、その先端に立つ、灯台のあかりが、ぽつンと赤く、ひときわ鮮やかに浮かんでいた」。そういえば、つげは「小さな入り江と小さな漁港が見えた」と書いていた。もしかしたら、もしかしたのかもしれない。
 


 さて、つげが家族旅行で大原を訪れたのは82年10月のことである。それから25年が経過したが、漁港はほとんど変わっていない。
 コンクリートは少し古惚けて、ガードレールも擬木製に取って代わられたが、依然「人影もない静かな漁港で」「清潔そうだった」。つげの写真右隅に写っている釣具屋は、すぐ傍に新しい店舗を構えていた。釣り客の姿は見えず、猫が欠伸をした。長閑であった。

 写真奥に見えるのが逢島(おうしま)である。昔は恋人たちが「逢瀬を楽しむ島」だったのが、関東大震災による隆起で陸続きになったという。大正時代には映画『島の女』も撮影された地元一押しの観光スポットだが、私はその
映画を観たことがなかった。『島の女』というからには逢島が女の根城なのだろう。こんなに小さな、胸を張って島とも言えぬ島でロケを済ませるとは、低予算な映画だなアと思ったが、たとえば『裸の島』のようなものでも、撮りようによっては無理に遠方の離島を舞台に据える必要もないのかもしれない。乞食に成り果てた村の娘が主人公かと空想する。

 富浦湾には二つの海水浴場があって、夏場は混雑するのだろう。民宿や旅館の数は多く、つげが記した旅館はみな健在であった(そのほとんどが電気も消え、夏場のみ営業しているようだった)。
 「『逢島館』は是非とも泊まってみたい感じの良い宿だが八千円と高く、百メートルほど離れたところにある『竹乃屋』『富浦館』も七千円もするので、さらに二百メートルほど入江の奥の方へ行ってみると『曳舟』という民宿があった」。

左が竹の屋、右が富浦館。富浦館こそが・・・。


 つげが泊まった民宿・曳舟は、1泊2食で6500円、朝食のみで3800円と安い。JRに金を吸い取られた今の私でも、この価格なら安心して泊まることができる。静かな湾を見下ろしながら、「あとから民宿料金以上を請求されるかと思うほど豪華」な料理を食べるとは、なんと贅沢なことか。普段は交通費のために犠牲にされる宿泊と食事だが、たまにはこういう巡礼があってもいいだろう。

 そこで財布を開くと残金は金参千円也。うハッ。

 私も曳船に泊まって、この文章の締めをファンサービスで艶やかに飾りたかった。翌日、「昨日来た道を駅のほうへ行」き、「小さな魚屋」でカンパチの値を知りたかった。
 しかし、それは主に経済的な理由から叶わなかったし、叶わなかったがために受けたショックは大きく、巡礼最大の原則「見つかるまで見つける」を貫けなかった私に、魚屋が発見できるはずもなかった。結局、今回の巡礼では、砂浜の焚火も、海苔の養殖も、「東京湾に出入りする船が停止しているようにゆっくり動いている」のも見ることができなかった。
 私にはアジの干物も買えない。そう思うと、本来居るべき場所から離れ、独り佇んでいる恐怖がどっと押し寄せてきた。帰ろう。東京に帰ろう。いつの間にか空模様まで怪しくなって、心細い想いで、急いで駅に向かった。
 商店街に残る古い店屋
 ホームには既に上り電車が着いていた。慌てて飛び乗った車内はガラガラで、車両に常客は私ひとりだった。巡礼精神が最後に崩れたことは悔やまれたが、カンパチの値段ぐらいネットで調べられるだろう。一息ついて座席に腰掛けると、グチャッと何かが潰れる音がした。リュックのなかで枇杷が四つ、歪な形になって汁を撒き散らしていた。



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