・ 黒湯
乳頭温泉は7つの温泉からなる温泉郷で、秋田と岩手の県境に位置する。黒湯はそのうち最も奥まった場所にあり、田沢湖畔から北東へ40分、急傾斜の山道をバスで走り、10分ほど歩くと到着する。バスは1時間に1本、日に12本もあり、黒湯が観光地としてかなりの成功を収めていることが分かる。かつて秘湯とまで呼ばれた温泉に苦もなく行けるのは有り難いことではあるが、損なわれてしまった「つげワールド」を想うと複雑な気持ちになる。
「旅年譜」によれば、つげは黒湯に1969年5月、1976年9月の二回訪れたのみであるが、計四枚のペン画(「旅の景色」の一枚・「桃源行」の三枚)に未発表エッセイ「黒湯・泥湯」(『つげ義春の温泉』所収)、さらに多数の写真を発表しており、少なからず魅了されたことが窺える。
ペン画に描かれた建物は、さすがに当時そのままとは言えないものの、面影を色濃く留めている。そう広くない敷地に内湯が三つ、露天風呂が二つ、打たせ湯が二つもあり、年季が入り堂々たる湯殿が密集した様は、つげが愛してやまない岩瀬湯本を髣髴とさせる。「『つげワールド』を今に伝えている」と言えそうだが、やはり似て非なるものにすぎず、「写真で見る分には」と付け加えねばならない。
黒湯のみならず、乳頭温泉郷はつげが訪れた温泉の中でも一二を争う知名度を持ち、常に人で溢れかえっている。エッセイ「黒湯・泥湯」は76年に書かれたものだが、その中でつげは、(69年の来訪時に比べ)「黒湯はあまりに有名になりすぎた」と嘆き、「この混みようには驚いた」と記している。黒湯は乳頭山の登山口にあるため、もともと湯治客だけでなく登山客の利用も多かったが、近年、温泉ブームの再燃(いや再沸騰と言うべきか)に伴い、若年の観光客が急増しているらしい。親子連れも多く、入口の駐車場に列をなす四駆の群れに、一瞬自分が行楽地にでも来たかの錯覚を覚える。少なくとも、東北の山間には似つかわしくない。
満員の温泉場など旅愁どころの騒ぎではなく、鄙を楽しむ気持ちもすっかり萎えてしまった。しかし、全面的に改築され、もはや「つげ」の「つ」の字もない八幡平温泉郷に比べれば、茅葺きが三軒も残っている黒湯は上出来と言うべきなのかもしれない。


上は「旅の景色」より「秋田県黒湯温泉 昭和44年5月旅行」。
「桃源行」は1976年10月から翌77年5月まで計6回、つげのペン画に詩人の正津勉が文章をつけるという形式で、『月刊ポエム』で連載された。先に引用した未発表エッセイも「桃源行」のために正津勉と旅したときに書かれたものである。話は逸れるが、この『月刊ポエム』はつげを知る上で無視できない重要な雑誌であるから(「もう一つの『COMICばく』」とまで言うファンもいる)、補足的に触れておきたい。
『ポエム』という名前が示す通り、現代詩の雑誌なのだが、創刊号からの連載に加え、77年度唯一の漫画作品である「アルバイト」や文章作品の代表作「夢日記」が掲載された。77年1月号ではつげの特集が組まれており、「プロフィールつげ義春」と題した正津勉とのインタビューは必読である。
「夕食は?」「十年後の自分は?」などと、まるでアイドルに向けてなされるような質問を投げかける正津に対し、つげは冷静沈着に返答する。つげ自身は『つげ義春日記』の中でこのインタビューを「まったくつまらぬ内容」と切り捨て、(特集号は)「過不足ない出来映えなれど、インタビューのみ気に入らない」「ふざけすぎて露悪的」と散々であるが、野次馬根性から見ればなかなかのインタビューである。「つげ義春」の情報こそ重要なのだというのは当然だが、やはり素人目には「つげ義春は何を食べているんだろう」ということも気になるのである。
「露悪的」な箇所はともかく、つげの憤慨には芸術家としての自負を垣間見ることができ興味深いが、質問が些事に及んだことの他に、インタビュー自体に辟易していたことも無関係ではないだろう。前年の“つげブーム”とともにインタビュー・対談の数は急増し、ブーム前の0件(1975年度)から11件(1976年度)になっている。
――世の中なんてどうでもいい?
いいんじゃないですか。
陰気といってしまえばそれまでだが、つげの“カリスマ性”をここまで強大にした一因が、この絶妙な切り返しに見えないだろうか。つげの「凄さ」は彼が生来的に持つペシミスティックな性質に由来し、それを必ずしもペシミスティックに受け取らなくとも作品ひいてはつげ義春という作家像を成り立たせてしまう、“度量の広さ”にこそある。そしてそれがこのやりとりに象徴されている―――こう言ったら、いくらなんでもファンの邪推も度を越しているだろうか。
以下、ペン画は「桃源行」第三回「秋田・乳頭 『黒湯』」のもので、1976年12月に発表された。つげの写真については『つげ義春の温泉』(カタログハウス)を参照されたい。
入口脇には今も白抜きで書かれた「黒湯」の看板が立てかけられている。『つげ義春の温泉』には未収録だが、イラストの元となった写真が『月刊ポエム』1977年1月号57Pに「黒湯 昭和51年9月」として掲載されている。
渡り廊下は建て直されているが、いずれも写真通りの光景と言える。
正面の茅葺きが見当たらないが、おじさんたちの指差すところへと移転された。
さすがに湯治客が全裸で外を歩いていることはない。
・ 孫六湯
黒湯から歩いて数分の所に孫六湯がある。ペン画には登場しないが、写真が『つげ義春の温泉』に収録されている。温泉の前を流れる川はきれいに整備され、建物も大半が建て直されてしまったが、奥にある茅葺きはそのままである。前述したようにつげは黒湯の繁盛を嘆いているが、孫六湯も例外ではなく、雨が降っていたというのに、観光客でごった返していた。 |
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