
1973年4月、『夜行3』にペン画12枚から成る「旅の景色」
(※1)が発表された。その中の一枚が上の絵である。単行本収録の際、各絵に場所と時期が付され、欄外には「秋田県八森海岸 昭和44年10月旅行」とある。写真は能代から八森へと北上する国道101号線沿いの、八森観光市場の手前の民家である。
五能線八森駅周辺を散策しているときにここを探し当てたのだが、全くの偶然であった。見つけた瞬間、私は狂喜乱舞した。ペン画は海岸沿いの一民家を描いたもので、場所を特定できる要素は何もなかったし、35年もの時が経過しているのだ。その風景が残っていると考えるには多いに無理があった。鄙びた雰囲気を味わえれば十分だと、殆どあきらめていたから、発見の喜びは一入強かったのである。
全身で喜びを表現する私の横で、「そんなに熱くなることなの?」と友人が冷たく笑った。仕事をしていた漁師が訝しげにこちらを見遣る。
確かに、冷静に考えてみれば、そこまで喜ぶほどのことではなかったのかもしれない。電車やバスを乗りついで旅行するつげ義春が、ここ八森で遠出するとしたら、歩くしかないのだ。つげが散歩好きといっても人が歩く距離には限度があるし、10月の東北でそこまで遠方に足を伸ばすとは思えないから、下車した駅近辺と見るのが常識的だと言える。・・・しかし、しかしである。遥か陸奥でつげ義春に出会うのは、停車場で聞く訛り以上の感慨があったのだ。
確証を得ようと様々な角度から検証していると、たまたま民家の持ち主が通りかかり、話を聞くことが出来た。彼女は手渡したペン画のコピーを見るなり、「ああ、懐かしい。ウチですよ、ここ」と即答した。
聞くと、ペン画に描かれた建物は今年(2004年)5月まで絵のままに残っていたらしい。中央に見える茅葺き屋根もそのままだったと言う。茅葺きの維持が難しくなり、「宝庫」といわれた東北地方でさえかなり珍しくなってきた中で、三十年以上もつげの世界が完璧に残っていたのはほとんど奇跡といってもいいのではないだろうか。
それにしても、何というタイミングの悪さ。たった三ヶ月のニアミスに悔しさを隠せなかった。
八森に関しては他にもエッセイ「ボロ宿考」があるが、これは1991年晶文社から発刊された『貧困旅行記』に書き下ろされた。時期についてつげは「二十年ほど前」と記すのみだが、『旅年譜』や文章の内容から考えて、おそらく前述のペン画が描かれた旅と同じときの話であろう。「八森近くの海辺に沿う崖道を線路づたいに歩いて行くと、線路下の草むらの中に炭焼き小屋と見まごう掘立小屋のような宿屋があった」そうで、つげはこれを「空前にして絶後」の「粗末な宿」と激賞(?)し、「あとになって、どうしてこの宿屋を写真に撮っておかなかったのかひどく悔まれ、今も悔んでいる」とまで言う。
ここまで言われたら探さないわけにはいかないが、地元民は誰も知らず、手がかりすらつかめなかった。つげが推測しているように「もぐり」であったならば、公的な資料に期待しようもない。五能線は行けども行けども草むらに包まれ、あちこちに掘立小屋が散在する。短いエッセイから得た情報だけでは、その中から絞り込むことすら不可能であった。
もしかしたら『ボロ宿考』は初めから作り話だったのかもしれない。全てはつげの頭の中で作り上げられた仮想の物語で、ここ八森も「蒸発」という究極の自己否定へ至るために与えられた、哲学的実験場としての舞台なのではないだろうか。
途方にくれて海を眺めながら、ボンヤリとそんなことを考えた。
※1 「旅の景色」については、『「旅の景色」つげ義春の旅』(『つげ義春を旅する』所収)に詳しい。著者・高野慎三はつげのぺン画へのこだわりを「明らかにリアリズムの問題へと結びつく」としているが、全く同感である。「旅の景色」は「海辺の叙景」(主婦の友社、1978年)収録に際して「旅の画帖」に、『つげ義春とぼく』(晶文社、1977年)収録時に「旅の絵本」と改題された。現在、新潮社から出ている文庫『新版 つげ義春とぼく』、筑摩書房『つげ義春全集別巻 苦節十年記・旅籠の思い出』で手に入れることができる。